Ichthus School of English イクサス通訳スクール

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前回は昭和26年から昭和47年まで21年間、NHKラジオ放送で「英語会話」の番組を担当された松本享氏が主張された「英語で考える」を取り上げました。「英語で考える」という氏の教育哲学には賛否両論がありますが、それは氏の英語との長い付き合いとアメリカでの困難な経験と教育信念に基づいた日本人学習者への立派な英語学習の「福音」であったことは間違いないと思っています。

松本氏の「英語会話」の教育とは、昨今の軽薄な数々の英会話の上達論とは格が違います。また、インチキ商法まがいのビジネスの手段として「英会話」を利用し、金さえ儲かればいいという邪道なエセ教育でもありませんでした。そいう意味では、今「教育」という産業に関わる日本人に卑しい人間が増えたように思えるのは私ひとりでしょうか。

松本氏の時代から変わらないのが「英語会話」という言葉です。そして今でもこの「英語会話」ないしは「英会話」に多くの日本人が魅了されています。私は行動科学を専門にする学者ですが、私の専門の分野から考察してもたいへん興味深い現象です。

日本人はあまり意識せずに「英語会話」「英会話」という言葉を使っていますが、考えてみるとおかしな言葉です。他の言語、例えばスペイン語やフランス語を習っているときは、ほとんどの人は「私、フランス語を習っています」というはずで「フランス語会話を習っています」とは言いません。実際、昔のNHK語学講座のフランス語のテキストは「フランス語講座」となっています。

 

 

日本語を学んでいた私の知り合いのアメリカ人たちは誰も"I’m learning Japanese conversation (日本語会話を勉強しています)とは言いませんでした。”I’m learning Japanese.”です。言語を学ぶということは、その言語で「会話をする」ことも込みで学ぶものであり、「会話」だけを取り出すことがおかしく思えるのです。日本では昔から日本人は「英語の読み書きはできるが会話はできない」という誤解があり、「会話さえできるようになればあとは」という「成し遂げたい願望」が強くあるからでしょう。これが英会話 (English conversation) という言葉が生まれた背景だと思っています。昭和52年にNHK の英語による対談番組で國弘正雄氏と対談をしたダグラス・ラミス (Douglas Lummis) というアメリカ人の政治学者は以下のように言っています。

“If you put the word "English" in front of the "conversation," of course, that's the English language and people can understand that you mean speaking English, but the way that those two words appear together as a special refined expression with a special meaning is particularly Japanese.”

「会話 (conversation)」の前に「英語 (English)」という言葉をつけても、もちろんそれは英語として成立し、英語を話すという意味だと理解してもらえますが、その「英語会話」という言葉が特別な意味を持った特別な表現になるというのは、まさに日本的なものです。(訳責・筆者)

 

[ダグラス・ラミス著 イデオロギーとしての英会話]

 

ラミス氏の言う通りで、日本では「英語会話」あるいはそれをちぢめた「英会話」は特別な意味を持ち、日本独特のものであると私も考えています。だから巷には「英語学校」や「英語スクール」という看板はほどんどなく、もっぱら「英会話学校」「英会話スクール」となっているのです。そして「英会話」は「実用」という概念や「非学校英語」というイメージと強く結びついています。

したがって学校英語のような堅苦しさがあってはならないということで、(例外的なケースはあるものの)概して文法は軽視され、とにかくネイティブ・スピーカーと楽しく「会話」することが最大の目的となっているわけです。外国人と「会話」することに慣れるためという、まるで明治時代の日本人のような理屈をいう人もいるくらいです。

しかし、ここで考えなければいけないのは日本人の一般的な「社会性」です。これは良い悪いではなく、日本人の民族的な行動の特徴を私は言っています。日本人の「英会話」ベタは国語の会話ベタに大きな原因があり、日本人の持つ社会性あるいは「社交・外交」に対する弱さがあると考えています。日本の外交に携わる人たちの「会話」能力が低いのは、英語力というよりも言葉を駆使してメッセージを伝えるという人間的な行動が弱いからです。

例えば、日本人にはアメリカ人のように、知らない者同士は自発的に自己紹介してでも知り合いになろうとする心理的な行動は弱く、知らない人同士が同席するだけでも心理的に緊張を感じ、むしろ「匿名の状態」のほうが居心地がいいと感じる日本人はたくさんいます。紹介されても、相手が自分にとって無害な人間かどうかを判断するまで自己をあらわにする「会話」は避ける傾向が強いのです。

交渉という場でも、アメリカ人は妥協点を探しているのに、日本側が妥協はできない立場をどうか「察してください」と言わんばかりに、相手に「空気を読ませる」ような空虚な発言を繰り返せば、アメリカ人は態度を豹変させて日本人には「攻撃」と思えるくらいの強い言葉と態度 (agressive words and attitude) で迫ってきます。こうなればもう日本人側は「会話」どころではありません。日本人には野蛮に思えるほどの「攻勢 (agression)」に対して言葉を使って応じられなくなることが珍しくないのです。英語という言葉の問題ではないのは、その場にプロの通訳者たちがいても事態は変わりません。私はそういう交渉の場に通訳者として何度も居合わせたことがあります。

「会話」を避けるこの民族性は異人種 (自分とは外見や言語が異なる人間)に対してはより顕著にあらわれます。日常では外国人との接触においては、好奇心はあるが警戒心のほうが強く、それだけ心理的な相手への拒否感が大きく働きます。

日本人のこのような民族性をまったく知らないアメリカ人たちには日本人のこうした行動傾向はたいへんネガティブに映ってしまいます。言語はその民族の行動と深い関わりがあります。また言語は思考や行動の目に見えるパターンとなって現れるのです。日本語は相手の感情をさぐり、自分の感じ方によって行動様式を変える行動をうながす言語で、言い換えれば「自律性 (autonomy)」(どういう状況でも自分は自分、他者は他者と割り切り、自分を律する力)のたよりない言語であると言えます。それに対して英語は自律性を重んじ、常に「自己」を主張するように使われてきた言語であるがゆえに、日本語と英語の違いはおおうべくもありません。

Commodore Perry was reminded that Japanese did not act with the same rapidity as Americans did, which was thus illustrated: Should several Japanese meet together, desiring to visit the American ships, one would say:"It is a beautiful morning." To which another would add, "How pleasant it is!" Then a third would remark, "There is not then a wave to be seen upon the water." At length a fourth would suggest, "Come let us go and see the ship.”

ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように迅速に行動をしないことを承知していた。もしアメリカの船を見てみたいという日本人が何人か集まれば、一人がまず、朝の美しさに言及し、それに対して別の者が朝は爽快であることを言い添える。そして三人目が、海上に波が見えないことを述べて、そしてやっと4人目が 、それでは船を見に参ろうか、と提案するというような日本人の緩慢な行動の事例を思い起こしていた。(訳責・筆者)

これは1854年の613日付 The New York Daily News の記事の抜粋です。ちなみに江戸幕府はこの年の3月にアメリカと日米和親条約 (Convention of Kanagawa) を締結し、事実上日本の鎖国は終焉を迎えました。この頃から日本人の行動パターンはほとんど変わっていないことがわかります。日本人から見えれば別にどうということのないこのような些細な行動も奇異に映るのです。それが文化の差異というものです。

現在の The New York Daily News

/https://www.nydailynews.com/

日本人の英語教育論者の中には「英語は今やアメリカやイギリスだけの言語ではないので、文化との関連で英語を学ぶ必要はない」と主張される方がいられるが、私はそれは間違いだと思います。言語と文化は切り離すことができず、文化の違いは、思考と行動のパターンの違いを生み出すからです。英語学習者の中にはそんなことまで意識すればなおさら英語が話せなくなるという人もいられるかもしれません。多少英語ができても、いざアメリカ人と「会話」をするとなれば、途端に気遅れがして、なぜか言語面だけで劣等感を持ってしまい、相手の言うことに反論ができないというケースをしばしば目にしてきました。これは「英会話」力というよりも日本人に特有な心理的な問題が大きいのです。次回はその辺を詳しく書くことにします。

(Jay Hirota)

追記

1800年代とかの古い新聞や雑誌の記事を検索するには Library of Congress が便利です。

https://www.loc.gov/newspapers/?dates=1850/1859

 

当時のアメリカの新聞記事 Commodore Perry's work という言葉が載っています。日米和親条約に関する記事です。

 

同年代の日本の新聞 (瓦版)

 

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