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戦後すぐに平川唯一氏のNHKラジオ放送によって英会話ブームが起こったわけですが、そのブームは前回書いたように、わずか5年ほどで終焉を迎えました。その後、NHKラジオに、戦後二番目の英語会話番組が登場したのは、昭和26年です。終戦から6年後。そしてこの番組はなんと昭和47年まで21年間続きました。講師を勤めたのは、ご存知の方もおられるでしょうが、松本享氏でした。

 

[松本享氏 スケッチ]

松本氏の経歴を簡単に書いておきますと、戦後、母校であった明治学院で教授を勤め、その後、日本女子大、フェリス女学院大で教鞭をとった大学の先生です。また、氏はキリスト教徒であり、ニューヨークのユニオン神学校で教育を受けた神学生でもあったのです。昭和10年に22歳で渡米し、昭和16年の日米開戦で敵性外国人としてニューヨークのマンハッタン島の横にあるエリス島の連邦移民収容所に抑留されます。その時代、アメリカではおよそ12万人以上の日系人と日本人移民が全米に12箇所ほどあった強制収容所に入れられました。その後も松本氏は、ニューヨーク州のロングアイランドの収容所に移送され、またメリーランド州の収容所にも入所しています。

戦後も日系アメリカ人は、アメリカ人であるにもかかわらず、旧敵国であった日本とつながりがあるという理由だけで、移民帰化法の施行まで長年、市民権を剥奪されました。戦争の社会的後遺症とでも呼ぶべきアメリカの社会病理が発現して、日系アメリカ人と日本人移民は醜い人種差別に晒されることになります。終戦後、日系アメリカ人たちは「二級市民 (second-class citizens) 」というアメリカ的カースト制の低い「階級」に耐え忍ぶことを余儀なくされました。収容所を仮出所した松本氏は困難な社会境遇にあっても、平和主義を貫き、収容されている日系アメリカ人を新しい定住地に移す再転住委員会 (the Committee on Resettlement of Japanese Americans) で中心的な役割を果たすなどして、日系アメリカ人を取り巻く社会環境の改善に寄与していきます。日系人の再転住政策はアメリカの人種政策として政治的に重要な意味を持っていました。日系人は地位向上のためにもすみやかにアメリカ社会へ同化する必要性があったのです。松本氏はその後、さらに社会的な運動に参加してアメリカのキリスト教会との関わりを深めていき、キリスト者として聖職につく決意をします。その出来事を1944年2月11日 (昭和19年) のニューヨークタイムズが日本人がキリスト教会の聖職についたことを報じる記事を載せています。写真は電子版です。
[ちなみに松盛美紀子氏(同志社大学大学院アメリカ研究科)は2019年に「日系人の再定住政策―Japanese American Bulletinを通してみる松本亨の言説―」というテーマで同志社大学にて研究発表をされています]

 

日本人が聖職者に叙階。7人の警察官が警備にあたる。 日本のキリスト教家庭で育った松本享氏が日系人の再定住問題に取り組む

 

当時の史料を読んでみますと、この叙階式はニューヨークのマーブル・カレジエート教会 (Marble Collegiate Church) で、およそ200名が参列して挙式されました。教会の周辺を7人の警察官が警備にあたっていたとあります。この教会はアメリカでも最も古いプロテスタントの教会のひとつです。そして3年後の1947年には松本氏はコロンビア大学大学院に入学し、48年に教育学で博士号を取得されています。北米外国伝道協議 (Foreign Mission Conference of North America) により明治学院に派遣されたことで、1949年に帰国しました。波乱万丈の14年間のアメリカ生活であったと言えます。

松本享氏は、帰国から2年後の1951年にNHKラジオ「英語会話」の放送を始めます。私は松本氏の「英語会話」放送がなぜ21年間もの長きにわたり支持されたのか、その理由のひとつに氏の日本での英語教育への並々ならない情熱があったからだと推察します。それは英語でいうまさにmissionary zeal (宣教師的な熱意) といっても言い過ぎではないでしょう。氏の場合、単に英会話の表現をラジオで楽しく教えるというレベルを遥かに超えた「使命感」のようなものを感じます。英語教育に向ける真摯な情熱と熱意がなかったならばとてもなし得なかった業績であるとも考えます。

この背景には、アメリカの日本に対する占領政策の一環であった「放送番組政策」があります。「放送は健全な民主主義に奉仕し、放送を自由な表現の場とし、不偏不党、真実および自律を保証する」という内容のものです。天皇を国の統治者とした軍国主義により国民を圧制した日本という国に、国民を主権者とする社会をつくりなおす機会が与えられたのです。

松本氏はみずから執筆した英語会話のテキストの中にこのような言葉を載せています。

「私達日本人は、感情を外にあらわさないことがよいと教えられてきました。そのためか日本語でさえも、意思の充分通じないことが時にはありがちです。英語を話す人達、特にアメリカ人は、逆に、自分の気持ちを素直にあらわすことを当然のことと考えています。率直に気持ちをあらわして、自分もせいせいする代わりに、人の正直な意見も尊重してきく習慣をもっています。この気持ちが、英語にそっくり出てくるのは当然すぎるほど当然なことです」

私が調査した限りにおいて、上の言葉が氏の「英語という福音」の宣教活動の中心をなした主張であると考えています。氏の言葉はたいへん平易で読み手にわかりやすく書かれています。が、そのメッセージは、決して日本人をアメリカ人化することを目的にしたものではなく、それまでの常に上から目線で国民を見下ろしていた政府が作り出した日本の抑圧的な文化、つまり個人が自分の気持ち、考え、信条を率直に表現できなかった文化を英語という言葉を学ぶことで少しでも変えていける、と伝えることだったと思うのです。

当時は現代のようにお気軽に英語圏の国々に留学できるような状況ではなかったのです。では誰もが、学ぶ意思さえあれば、日常で日本にいながらどうすればわずかでも日本という文化的なディメンションを超えて異文化体験ができるのかを考えた時、松本氏のラジオ「英語会話」の放送を聴くことできっかけを掴むことは十分に可能であったのです。松本氏の言葉を引用します。

「私達『日本語国民』が外国語である英語を学ぶ時に痛切に感じることは、日本語と英語に現れてくる物の考え方の根本的な相違である。-省略- その相違を承知していて、気を悪くしないことです。ただし始終英語で物を考えていると、段々そういう習慣がついてきて、つい日本語で話している時も英語式の考え方をするようになります」(強調は筆者)

「始終英語で物を考えている」という書き方をされていますが、これこそ松本享氏が生涯、英語習得の最善の方法として唱えられた「英語で考える(Thinking in English)」に結実されていきます。実は私には、氏が主張された「英語で考える」ということが不可解であったものですから、その疑問が松本氏をその時代背景とともに調べてみようという関心を抱く端緒となったわけです。

では、「英語で考える」をどういう意味で松本氏が提唱され実践されたのかを次回、詳しく書いていきます。

[次回につづく]  (Jay Hirota)

 

松本享氏の著書

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