「悩める」企業通訳者のための通訳レッスン Lesson 5
Lesson 5
前回は速読 (speed reading) と速聴 (speed listening) について書きました。それを読んで、早速、速読、速聴を試された方もおられるかもしれません。スクールの受講生の中には紹介した速読の本を買って読まれた熱心な方もおられました。
速読も速聴も、慣れるまで正しい訓練を続けることが必要です。「意志が弱いのでなかなか訓練というものが続かないんです」という方は、必要性がないからではないでしょうか。
先のブログで私はこう書いています。
私が人生で初めて速読の必要性に迫られたのは、アメリカの大学・大学院で勉強している時でした。
そうです。「必要性に迫られる」ことが、強い原動力 (a strong drive) になります。必要でないことは、無理にしなくてもいいわけですから。
もうひとつ、速読、速聴をする際に、立ちはだかる壁は「教養」と「語彙の不足」です。長年の教授経験から、私は、多くの日本の通訳訓練生の教養と語彙力が貧弱であること知っています。
自覚していても、教養と語彙を豊かにする努力をしない人は、いわば確信犯なので、通訳訓練だけをいくら積んでも、成果が上がらず伸び悩みが続くことになります。
企業または省庁などで通訳されている方は、自分が通訳する分野の語彙は備えていらっしゃるでしょうが、私のいう「教養」「語彙力」という点ではどうでしょうか。
最近は、ビジネスパーソンに仕事力以外に、「教養」と「言葉力」が求められる時代です。そういう人たちの通訳にあたる通訳者にも同じことが求められて当然なのです。
通訳者の教養と語彙とは、スポーツをするときの「基礎体力」に例えてもいいでしょう。サッカーをするにしても、テニスをするにしても、基礎体力がなければ技能上達の訓練を長時間続けていくことは困難になります。
通訳の訓練についても同じことが言えるのです。スピーチや発言は全て「言葉」で構成されています。その構成要素に対応できなければ、通訳はできません。
例えば、実際に通訳をされている方は、次の音声を聴いてメモを取らずに記憶して、どれくらい通訳できるでしょうか。ぜひやってみください。
Audio Link
https://drive.google.com/file/d/1hyjAeb0Zgz72iL0-JZfi1SVnwNPQ9XPf/view?usp=sharing
私は通訳者ですので、これくらいの情報量 (100語程度) であればメモ取りは不要ですし、細部まで記憶できます。これは訓練の賜物です。記憶に基づいて、音声を書き起こしてみます。
Hi, I'm George Tulevski, and I'm a research scientist at IBM TJ Watson Research Center. Today I've been challenged to teach one concept in five levels of increasing complexity. And my topic is nanotechnology. Nanotechnology is a study of objects in the nanoscale between 1 and 100 nanometers in size. And it turns out that objects in this size scale have really interesting properties that differ from objects at a macroscopic scale. Our task is nanotechnologists is to understand these materials, understand their properties, and then try to build new technologies based on these properties. At the end of the day, my hope is that you'll understand nanotechnology at some level. (111 words)
日本語に通訳すればこうなります。
「こんにちは、IBM TJワトソン研究所の研究員、ジョージ・ トゥレヴスキです。今日は1つのコンセプトを、複雑さの度合いがだんだん高くなっていく5つのレベルで教えるという課題を与えられました。私のテーマはナノテクノロジーです。ナノテクノロジーとは、大きさが1~100ナノメートルのナノスケールの物体の研究です。このサイズの物体は、巨視的なスケールの物体とは異なる、実に興味深い特性を持っていることがわかっています。私たちナノテク技術者の仕事は、これらの材料とその特性を理解し、特性に基づいて新しい技術を構築することです。最終的には、皆さんにもナノテクノロジーをある程度理解していただきたいと思っています。」
実は、このように、知識がベースになる発話は、聞き取りも通訳も易しいのです。ナノサイエンス、ナノテクノロジーについて基礎的な知識があれば容易に理解できるからです。それにトゥレヴスキ氏の話には難しい言葉は出てきません。
ナノサイエンス (nanoscience) は、教養の範疇に入ります。
次は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者であるリチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)の講演の一部です。聴衆は一般の人たちです。
Richard Dawkins
まずは音声を聴いて、通訳してみてください。
Audio link
https://drive.google.com/file/d/1VE0RWKvDN90T06e1v8XrvZ8odn3B3RuQ/view?usp=sharing
音声を書き起こしておきます。
There is an effective evolution lobby coordinating the fight on behalf of science, and I try to do all I can to help them, but they get quite upset when people like me dare to mention that we happen to be atheists as well as evolutionists. They see us as rocking the boat, and you can understand why. Creationists, lacking any coherent scientific argument for their case, fall back on the popular phobia against atheism: Teach your children evolution in biology class, and they'll soon move on to drugs, grand larceny and sexual perversion.
In fact, of course, educated theologians from the Pope down are firm in their support of evolution.
This book, "Finding Darwin's God," by Kenneth Miller, is one of the most effective attacks on 1) Intelligent Design that I know and it's all the more effective because it's written by a devout Christian. People like Kenneth Miller could be called a "godsend" to the evolution lobby, because they expose the lie that evolutionism is, as a matter of fact, tantamount to atheism. People like me, on the other hand, rock the boat.
But here, I want to say something nice about creationists. It's not a thing I often do, so listen carefully. I think they're right about one thing. I think they're right that evolution is fundamentally hostile to religion. I've already said that many individual evolutionists, like the Pope, are also religious, but I think they're deluding themselves. I believe a true understanding of Darwinism is deeply corrosive to religious faith. Now, it may sound as though I'm about to preach atheism, and I want to reassure you that that's not what I'm going to do. In an audience as sophisticated as this one, that would be 3) preaching to the choir. No, what I want to urge upon you…Instead, what I want to urge upon you is 2) militant atheism.
実際に私が通訳した録音音声をもとにして、文章として若干編集しています。
「さて、科学を代表して、有効な進化論のロビー活動が行われておりまして、私もできる限り協力したいと思っていますが、私のような人間が、進化論者であると同時に無神論者でもあることをあえて言いますと、腹を立てられる方々がいます。私たちが余計な揉め事を起こしていると思われていますが、その理由はご理解いただけるでしょう。創造論者は、科学的に一貫した議論ができないために、無神論に対する世の中の異常な恐怖心を頼みにするしかありません。彼らは生物の授業で進化論を教えれば、子供たちはすぐに麻薬や窃盗、変態的な性行為に走るだろうと思い込んでいます (笑)。
実際には、もちろん、ローマ法王からずっと連なる教育のある神学者たちは、進化論をしっかりと支持しています。ケネス・ミラーの『ダーウィンの神を探して』という本は、私が知っている知的設計論に対するきわめて効果的な攻撃の一つであり、敬虔なキリスト教徒によって書かれているからこそ、なお効果的なのです。ケネス・ミラーのような人は、進化論ロビーにとっては「神の贈り物」と言えるでしょう (笑)。と言いますのは、進化論は実際のところ無神論に等しい、という嘘を暴くからです。そして一方、私のような人間が、こうして波風を立てるからです。
しかし、ここでは、創造論者について肯定的なことを言いたいと思います。滅多にないことなので、よく聞いてください。彼らが正しいと思うことがひとつあります。進化論は基本的に宗教を敵視しているという点では、正しいと思います。進化論者の中には、ローマ法王のように宗教心を持っている人も多いと言いましたが、それは自分を欺いていると思うのです。私は、ダーウィニズムの真の理解は、宗教的な信仰を深く蝕むものだと信じています。今、私は無神論を説こうとしているように聞こえるかもしれませんが、そうではありませんので、ご安心ください。皆さんのような学のある方々の前では、釈迦に説法になってしまいます。そうではなく、私が皆さんに力説したいのは、好戦的な無神論なのです (笑)。」
聴衆がなぜ、笑っているのかお分かりになりましたか。
私が日本人の聴衆の方々のために日本語に通訳をしたとしても、通訳を聞いて同じように笑うかどうかは疑問です。
通訳を聞いても(読んでも) よく意味がわからない、という方もおられるはずです。それはもはや通訳の限界であり、端的に言えば「概念」の理解の問題です。
しかし、通訳をする側の私たち自身は、通訳する言語に固有の概念にまで精通する必要があります。
私たちが知っている言葉は、私たちの周りの世界に対する認識を形成します。特定の概念を表す言葉があれば、その概念について考えたり、話したりすることが容易になるのです。英語圏の人たちにとって馴染みのある概念は、必ずしも日本人にとって馴染みのあるものではありません。
evolution lobby
atheists
evolutionists
creationists
theologians
the Pope
Intelligent Design
evolutionism
the choir
militant atheism
以上のような言葉 は日本という文脈の中では、あまり馴染みがあるものとは言えません。
皆さんは、a frame of referenceという言葉をご存知でしょうか。集英社のイミダスには「フレーム オブ レファレンス」というカタカナで載っています。価値判断や行動などの「基準枠」のことです。ある概念が、自分の言語文化の基準枠からはみ出していれば、その理解はむずかしくなります。
ドーキンス博士の話では、英文スクリプトの中の下線が施された言葉 (概念)を知らなければ、当然理解に支障が出ます。私はカトリックの信仰を持つ人間ですが、キリスト教国ではない日本においてはatheism (無神論) という言葉とそれが表す概念は、a foreign concept なのです。
Foreign language を本当の意味で理解しようとすれば、foreign concepts にまで踏み込んで学ぶことが必須になります。特に通訳者のような言葉のプロにとっては当然の教養と言えます。
以下に3点をあげてみます。
1) Intelligent Design (知的設計論) とは、生物や宇宙の構造の複雑さや緻密さから、その精巧なシステムは「知的な何か」によって設計されたとする理論です。IDやID theoryと略されることがあります。この部分は、言葉を知らないと聞こえにくかもしれません。
2) preaching to the choir、「すでに知っている人を説得しようとすること」という意味です。 choir [kwaɪər] は、カトリック教会なら聖歌、プロテスタントの教会でなら賛美歌を歌う合唱隊のことです。直訳すると「聖歌隊に説教する」となります。私は、あえて日本的に「釈迦に説法」と通訳しました。
3) militant atheism は、「好戦的な無神論」と訳せますが、宗教に敵対するとみなされる無神論に適用される侮蔑的な呼称です。オーディオの最後で笑いが起こったのは、ドーキンス氏があえてこの蔑称を使って、挑戦的に悪ぶってみせたからです。
私はキリスト教の信仰を持つ行動科学者( a behavioral scientist)ですが、好戦的な無神論者を自認する動物行動学者であるリチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)氏のベストセラーになった著書 (The God Delusion) は読んでいます。
どうして私たち科学者が「神」に関心を抱くのか。それが西欧という世界なのです。有神論 (theism) と無神論 (atheism) は、共通して「神 (theos) 」で結ばれる-ism (論)であり、神をめぐる「表裏」なのです。(ちなみに a-theism のa-は「否定」を表します)
ここで述べたことは一例ですが、私がいう通訳者の教養とは、こういう宗教にまで及びます。こんなことに興味はない、という向きは、そんなことにも、あんなことにも、あまりご興味はないのではないでしょうか。
そして教養の枠組みはどんどんと狭くなっていきます。
ご関心のある方はドーキンス氏の The God Delusion を一読されるといいでしょう。Kindle版でも読めますし、audibleでも聴けます。その後で、上の彼のスピーチの一部を聴けば、理解の幅は必ず広がっています。
ドーキンス氏は著書の中で、
科学者の立場から論理的に考察を重ねながら、神を信仰することについてあらゆる方向から鋭い批判を加えていきます。
宗教が社会へ及ぼす実害のあることを訴え、神の存在という「仮説」を粉砕する論を展開します。古くは創造論者、現在ではインテリジェント・デザインに代表される、非合理をよしとする風潮に対して、あえて反・非合理主義 (anti-irrationalism) の立場を貫いています。
欧米ではベストセラーになった本です。
私は神を肯定する科学者として、ドーキンス氏と対談してみたいと常々思っています。
今回は、「教養」にスペースを当てすぎましたので、次回は、語彙力の養成について、具体的な方法を紹介しながら書いていきます。(つづく)