Ichthus School of English イクサス通訳スクール

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 Lesson 1 

通訳者とは

 

* これは以前に掲載した原稿に加筆して新しくしたものです。この連載の後には、具体的な通訳訓練の方法を新たに書いていきますので、まずはレクチャー・シリーズからどうぞ。

 

何事にも向き不向きがあります。通訳という仕事に向く人、向かない人について考えてみたいと思います。私は現在、自分が理想とする通訳トレーニングを行うことを目的に設立した、イクサス通訳スクールというオンラインレッスン専門の通訳学校で教えています。それ以前は大学で通訳演習という授業を持っていました。

 

私の専門は、行動科学という学問ですが、大学院の通訳の専門課程で通訳学 (Interpreting studies) で修士号を取得して以来、日本人のための通訳教育に関心を持ち、通訳教育理論に基づいた訓練を教えています。

 

私の授業の受講生の大半は英語が好きな女子学生でしたが、今の通訳スクールの受講生の方たちも90% 以上は女性です。どうやら通訳という仕事は、女性に人気があることは間違いないでしょう。

 

大学の通訳の授業では、毎年、学期初めに、通訳者、あるいは通訳という仕事についてどういうイメージを学生たちが持っているかを調べるために、簡単なアンケートを取ります。

 

少なくとも私が取ったアンケートによると、通訳に関するイメージはたいへん肯定的なものでした。「カッコいい仕事」「専門職の花形」「スキルだけで評価される性差のないプロフェッション」などです。「国際コミュニケーションに直接、貢献できる仕事」といった内容もありました。

 

日本ではテレビや雑誌でよく取り上げられる、いわゆる「有名な通訳者」が講演をすれば、通訳に憧れている人たちが大勢集まってきます。超有名な通訳者には、ロックスター並に熱烈なファンたちがいるそうです。

 

私の知るかぎり、世界には多くの国があるとは言え、こういう国は、おそらく日本だけではないでしょうか。私の知識では、欧米の人たちの通訳という職業への関心度は、日本人ほど高くありません。多言語が話せる人たちがめずらしくないヨーロッパなどと比べれば、外国語が上手に話せるだけで、個人の知的イメージが高くなる傾向のある日本とはお国の事情が異なるからでしょう。

 

大学で教えていた頃、私の教師としての最初の仕事は、「もてはやされ、注目を浴びられる花形的な専門フリーランス」という通訳者の派手なイメージを、学生たちには申し訳ないですが、現実色に塗り替えることでした。間違った認識から物事を始めると誤った結果を導き出すことになるからです。

 

注目を浴びられる、という軽薄なイメージを生み出している元凶は、YouTubeなどに、スター気取りで登場している通訳者たちにあるのかもしれません。

 

「通訳は必要悪」である、というのが私の基本的な前提です。国語辞典には、「必要悪」の定義として、「ないほうが望ましいが、社会や世の中にとって必要で、なくすわけにいかないものやこと」と書かれています。通訳という仕事は、ほぼこの定義に当てはまります。

 

通訳はないほうが望ましい? と疑問に思う方もおられるかもしれません。コミュニケーションの方法というものはそもそも、誰かに「代弁」してもらうよりは、発言者が自分の言葉で自分の考え、意見、思想などをじかに話すという伝達方法に勝るものはないからです。

 

日常生活でも誰かに代弁してもらうと、「そこはちょっと自分が言いたいこととはニュアンスが微妙に違うんだよね」、というなんとも歯がゆい気持ちになることがありますが、それと同じです。自分で直接伝えるのが望ましいに決まっています。

 

しかし、話をする相手が、話し手と母国語を共有しない人となれば、話は変わります。例えば、相手が英語話者で日本語が理解できないとすれば、自分が英語を話せない限り、意思の伝達をあきらめるか、英語が話せる人に代弁してもらうしか方法はありません。

 

簡単な日常会話のレベルならば、どうにかこうにか、英語を駆使できても、伝えたい内容のレベルが高度であり、複雑なものであれば、立ち往生することになります。言葉が不自由では、下手をすれば、せっかくの話し手の名言も、たちまち迷言になることにもなりかねません。

 

世界にはマイナーな言語を含めると、およそ7,000以上の言語があると言われていて、メジャー言語だけでも20以上の言語が中心に話されています。伝達の相手が変わるたびに、それらの言語や文化に、私たちがみんな精通できるわけがありません。

 

ですから、「代弁者」としての通訳者は「なくすわけにいかない」わけです。ちなみに、AI 通訳は機械的な話の内容のやり取りを通訳することは、ある程度できるでしょうが、人間の感情のヒダや言葉の陰影という巧緻なレベルのコミュニケーションを通訳することは、おそらくこの先もずっとできない、と私はあきらめています。

 

通訳者が脚光を浴びる対象になるのが間違っているのは、いかなる場合も、「主役」は発言者であって、通訳者はつねに「代弁者」だからです。主役の存在や存在感を希薄にしたり、丸ごとジャックしてしまうような代弁者は、失格なのです。注目を浴びるのは発言者、スピーカーでなくてはいけません。

 

ですから、通訳者が注目や脚光を浴びるのは本末転倒です。自己顕示欲の強い人は、したがって代弁者である通訳者になるべきではないのです。たとえ通訳者になったとしても、周囲の人から注目されたいという欲求が強い人は、やがてその立場に不満を募らせていくはずです。

 

私の恩師だった*國弘正雄先生の言葉を借りれば、「自分の歌を歌いたい」人は通訳者には不向き、と言えます。

 

振り返れば30年以上、私は大学の先生をしながら、通訳の仕事にたずさわってきました。個人的には、*逐次通訳よりも同時通訳のほうが好きです。講演者の逐次通訳を勤めれば、通訳者である私も聴衆の前に顔をさらすことになります。

 

講演中の筆者

 

ところが、同時通訳だと、少し離れたところや発言者たちの背後に設置されている同時通訳ブースの中から通訳できます。聴衆には私の「声」しか聞こえません。姿は、あえて聞き手がブースの中を覗いて見ようとしない限り、目につかないのが普通です。

 

こうして私は発言者の「声」だけになれるのです。これは「必要悪」である通訳の理想的な形だと思っています。適切に発言者の代弁をできる人であれば、私である必要はありません。しょせん「声」なのですから。

 

通訳を職業にするために、通訳の訓練を受けようかと思案中の方は、ご自分に問いかけてみてください。

 

ただひたすら発言者の「声」に徹すことができるだろうか?と。

発言者の代弁を誠実につとめられるだろうか?と。

注目や脚光を浴びるに値するのは発言者であり、通訳者ではないけれど、それでも満足できるだろうか? と。

 

通訳者は Mr.X や Ms. X でいいのです。代弁者として、コミュニケーションを成功させることができれば、私でなくても、あなたでなくても、いいのです。

 

通訳者は時に失敗、つまり誤訳を犯します。そしてそうした失敗を重ねながら、より正確な「声」になっていきます。発言者の発言をより忠実に伝えられる「声」になっていけるのです。

 

次回は、リテンショションについて書きます。(つづく)

注:

* 國弘正男    日本の通訳者のパイオニアのひとり。文化人類学者。

* 逐次通訳 通訳者が話し手のそばにいて、発言を数十秒~数分ごとに区切って、通訳していく方式。

 

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