日本人のための通訳レッスン(レクチャー編) Lesson 7
Lesson 7 - レクチャー編
語彙の増強
今回は語彙の増強というテーマで書きます。
まずは、最近私が実際にやった放送同時通訳の初めの部分を聴いてみてください。
Audio link
https://drive.google.com/file/d/1cGdlh7QC3iS1Bq2_RkdhNxtH9xVOe2aa/view?usp=sharing
(音声を聞くにはGoogle Drive が必要です)
質問に答えているのは、ロシアの外交官であり、プーチン大統領の報道官を務めているドミトリ・ペスコフ(Dmitry Peskov)です。私の頭の中には、彼に関する「情報ファイル」があります。通訳する直前にそのメンタル・ファイル (頭の中のファイル) を開ければ、必要な情報は瞬時に出てきますし、おおむねこれから何を言うかは察しがつきます。報道官の彼がロシアの現在の立場を否定するようなことを言うはずがないのです。
外交官を経験している彼は、多くの外交官がそうであるように、自国のためにウソをつきます。ごまかしでしかないことを筋が通っているかのように聞こえるレトリックで「煙に巻く (to pull the wool over your eyes) 」発言をするかもしれません。そう言うことを承知の上で通訳する必要があるのです。
同時通訳は日本では「神業」などと呼ばれて、それができる人は称賛に値する知的なスペシャリストであるかように思っている人たちが大勢います。確かに会議通訳者は、一種のスペシャリストではありますが、神様を引き合いに出すほど大げさなものではありません。
適性のある人が一から正しい訓練を受ければ、(レベルの限界はあっても) 同時通訳はできます。問題は適性があるかどうかです。通訳訓練の教授者は訓練生に「適性」があるかどうかを判断できる慧眼がなければいけないと思っています。
私は自分の受講生に対しては、「適性」のある人には、率直に「ある」と言っています。通訳者の適性とは、単なる語学力だけではなく、留学の有無でもなく、「知力・知性」を含んだ全人的なコミュニケーション力 (holistic communicative competence) が備わっていることです。適性があると言われた人は、どうか私の判断を信じて、訓練に邁進してください。不明な方はお尋ねください。
実は「語彙の増強」と、先ほど書いた「メンタル・ファイル (頭の中の情報ファイル)」には密接なつながりがあります。単語 (words) だけを増やす努力は、決して有効ではありません。時事英語の単語帳を一冊丸暗記したところで (しないよりはいいでしょうが) 上手に通訳できるわけではなのです。通訳とはそういうものではありません。
このレクチャーはあくまで「通訳」を前提として書いていますので、「英語学習」を想定して読まれている方は誤解されるかもしれません。今から英検1級の単語を覚えますとか、TOEIC 900点を目指して単語を増やします、というような方の場合は話が変わってきます。
さて、メンタル・ファイルの情報は全て「言葉」です。Images ではなく wordsです。通訳訓練においては、頭の中にwords からなる information files を増やしていくことが大変重要な訓練の一部となります。
換言すれば、文脈 (contexts) を無視して、いくら words だけを増やしてもすぐに忘れます。またその word の正しい使い方も、文脈によって変化する適切な「訳語」も身につきません。時事英語辞典を1冊丸覚えました、と豪語する受講生を教えたことがありますが、残念ながらその方の英語語彙の知識は、ごく限定された、融通の効かないものでした。
では、具体的にどういう訓練をすればいいのでしょうか。
私はこの記事を書く前に、朝の日課ですが、the Washington Post (電子版) の主要な記事を全部読みました。通訳訓練における「語彙の増強」は新聞を使うと効果的です。新聞にはさまざまな話題が取り上げられていて、それらの話題を表現する語彙の宝庫だからです。
かつて新聞は「社会の木鐸 (ぼくたく)」と呼ばれました。「木鐸」とは、古代中国で法律や条例を市民に知らせるために鳴らした大きな鐘のことで、新聞の役割は社会に警鐘を鳴らし、進むべき道を示すことだと考えられていたのです。新聞が社会を導くというのは非現実的だという批判もあるでしょうが、事実を報道し、権力者の暴走を監視するというジャーナリズムの本質を示唆する言葉だと思います。
日本語ネイティブだからといって、誰もがこういう成句を知っているわけではありません。しかし、言葉を扱うプロである通訳者は当然知っておくべきです。言葉はその背景と共に「学ぶ」必要があります。(それにしても日本語には、実にたくさんの表現が中国から入ってきたことがわかりますね)
通訳者は、「社会の木鐸 (ぼくたく)」に相当する英語の表現についても心得ておくべきです。英語には、the fourth estate という成句があります。文字通りは、「第4階級」という意味です。アメリカでは、立法、行政、司法の三権と並んで報道機関 (the press) を位置づけるために、第4の階級という言葉が使われます。第4の階級 である報道機関は、民主主義が機能するために重要な、政府の監視役としての役割を果たすべきだという考え方は、木鐸の喩えと通じるところがあります。
ワシントンポスト紙の過去の記事に以下のような英文があります。
Washington Post Executive Editor Martin Baron was honored with the Fourth Estate Award by The National Press Club on Thursday, November 29, 2018.
(ワシントン・ポスト紙のマーティン・バロン編集長は、2018年11月29日(木)、全米記者クラブからFourth Estate Awardを授与されました)
The Fourth Estate Awardとは、毎年、ジャーナリズムの分野で優れた業績をあげた出版社、放送局、オンライン・メディアに対して贈られる賞です。
どうですか、こういう1文からでも常にアンテナを張って、新聞を読んでいると語彙が増えることがわかるはずです。時事英語辞典を丸暗記している時間があれば、日本語の新聞と英語の新聞を読んで、ひとつでも多くの記事から語彙と一緒に情報を吸収してほしいのです。
仕事で忙しい方が、単語だけをただただ暗記するのは、時間がムダになり過ぎます。それに暗記した単語はすぐに忘れてしまいます。毎日読む新聞記事の中で目にする単語は、同じ話題を扱ったニュースを読んでいると何度も出てくることがありますので、そういう単語はその話題には欠かせない頻出単語であることが自然にわかります。また、その単語が使われている背景も併せて知ることができます。
私はたまたま英語の新聞を読んでいて、1) ウクライナ情勢を報じる記事と 2) 経済記事、3) 犯罪記事の中で、 attrition [ətríʃn] という単語が使われていることに気づきました。通訳する場合、文脈によって「訳語」はそれぞれ異なります。
1) Such accounts, international observers say, have helped shape the Western public’s understanding of the Russian invasion as a nightmarish war of attrition, with Moscow facing setbacks against a tough resistance.
(これらの説明によって、ロシアの侵攻が悪夢のような消耗戦であり、モスクワは厳しい抵抗に直面して後退している、ということを西側諸国の人々が理解し易くなった、と海外の専門家たちは言います)
ここには a war of attrition という表現があり、これは「消耗戦」と訳せます。
2) Their well-paid workers have won a small rise, and no more than 14 union positions will be lost through attrition for the term of the new contract, which runs until that year.
(高給取りの労働者はわずかな昇給を勝ち取り、同年まで続く新契約の期間中、減員によって14人以上の組合員の職を失うことはないだろう)
3) In the last year we have seen the conviction rate rise to 73%, delivering the lowest attrition rates ever recorded.
(昨年には、有罪判決率が73%まで上昇し、過去最低の減少率を記録しました)
通訳の訓練においては、単語の意味だけがわかっても、文脈に応じて「適語」に瞬時に訳せなければ、まったく実用的ではありません。従って常に日本語の語彙も同時に増やしていく必要があるのです。
私が*ワシントンポスト紙 (電子版)を薦める理由のひとつは (ニュース報道記事の質の高さはもちろんですが)、ウエブページ上でもアプリでも記事の「読み上げ機能」がついているからです。読んだ記事を今度は音声で聞いてみると聴解練習になりますし、また音に触れることで言葉の記憶への定着が強化されます。通訳は「聴く」ことから始まります。そういう意味でも、目だけではなく、積極的に「耳」を使って「内容のある情報 (substantive information)」を理解し、取集する訓練を続けましょう。
単語を忘れることを恐れず、毎日、新聞を読むことを億劫がらず、できるだけ多種多様な分野の記事をたくさん読んで、聴いて、語彙を増やし、情報を増やしていくことが、結局は通訳訓練における語彙の増強には最大の効果があるのです。ぜひ今日からお試しください。
次回はリスニングを取り上げます。(つづく)
- Jay Hirota
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